佐倉に移り住んで半世紀以上、少女絵画家・高橋真琴さんが愛する「自然と調和したまち」更新日:2020年07月01日

 

お姫さまのように愛らしい少女と、緻密に描かれた装飾や風景。唯一無二の世界観で国内外にファンをもつ画家・高橋真琴さんは、29歳のときに佐倉へ移住して以来、ずっとこのまちで暮らし続けています。現在は「佐倉親善大使」としても活動する高橋さんにとって、第二のふるさとである佐倉はどんなまちなのでしょうか。ご自宅兼アトリエの庭に設けられた「真琴画廊」でお話を伺いました。

少女雑誌に衝撃を受け、少女絵の道へ

高橋さんは大阪市生まれ。高校卒業後に貸本少女漫画でデビューし、その後は『なかよし』『マーガレット』などの表紙や挿絵、文房具や洋服のデザイン、ファッションブランドとのコラボレーションなどを多数手がけています。モチーフは一貫して「少女」。人生をかけて少女絵の道を究めることになったきっかけは、少年時代の体験にあったようです。

――絵を描くことは子どもの頃から好きだったのですか?

はい、おんぶされている赤ん坊のときから絵らしきものを描いていたそうです。絵描きか、考古学者か、天文学者になることが子どもの頃の夢でした。

――絵を描く道に進むことに決めたきっかけは?

私は男三兄弟で育ったもので、読む本といえば少年ものばかり。そんななか、中学2年のときに学校の図書室で「ひまわり」という少女雑誌を見て、中原淳一の絵に「こういう世界があるんだ!」と衝撃を受けました。少女に対する少年の憧れもあったのだと思いますが、そこから竹久夢二や高畠華宵などの抒情画(じょじょうが)、『赤毛のアン』や『若草物語』などの少女小説に夢中になっていったんです。

当時絵描きなどは男の生業として認めてもらえない時代でしたが、ありがたいことに親は応援してくれて、大阪の出版社から縁あって貸本漫画家デビュー。その後は少女雑誌やグッズの仕事もいただくようになりました。抒情画のタッチを少女漫画に取り入れ、新しい可能性を切り開くことに全力を尽くしていた時代でしたね。

――少女漫画の「瞳に輝く星を描く」という定番スタイルは、先生が生み出したという話を聞いたことがあります。

「瞳に星を入れるスタイルを“完成させた”」と評論家は言ってくれているようです。何かに打ち込んでいる人は、瞳がキラキラ輝いていますよね。それを表現したかったんです。宝塚歌劇も大好きで、舞台で演じる人の瞳もキラキラして、きれいですよね。

――漫画から表紙・挿絵・グッズなどイラストの仕事に重きを置くようになってからも、ずっと少女を描き続けていらっしゃいます。どんな思いで少女絵と向き合っているのでしょうか。

気品があって優しく、頬を赤く染めるような恥じらいと清潔感をもっている。それでいて凛々しさもある。私が描き続けているのはそうした女の子です。今はジェンダーの時代ですから決めつけはよくありませんが、女性だけでなく男性も「気品」が大事だと私は思う。昔とくらべて軽視されがちな人間の気品を、私の絵から少しでも感じ取ってもらえたらと思って描いています。

市内を走るコミュニティバスにもラッピングされている

佐倉への移住、子育て

――1962年、29歳のときに佐倉に移住されたそうですね。

それまでは東京の文京区に住んでいたんですが、佐倉に戸建を建てる人を紹介してもらったご縁で、ここ上志津に引越してきました。志津駅に着いたとき、空気の爽やかさが東京や大阪とは全然違って、思わず深呼吸したことを覚えています。当時は駅からここまで雑木林で、住宅もほとんどなかった。自然がそのまま残っている環境が気に入りました。

――その頃は佐倉でどんな過ごし方をされていたのでしょうか。

仕事に一生懸命で忙しかったので趣味はほとんどありませんでしたが、春は雑木林でタラの芽を摘んだり、秋は田んぼでイナゴを捕まえたり、仕事の疲れを自然の中でよく癒していました。結婚して息子と娘ができてからは、散歩や魚釣りなどにもしょっちゅう行きました。

――子育てで印象に残っていることはありますか?

子どもの幼稚園・小学校・中学校ではPTA、志津地区青少年育成住民会議には創立当初から参加してきました。どうすれば地域の子どもが健やかに育つか、どうすれば自分たちの暮らしがよりよくなるか、仲間たちとよく話し合いましたね。近年の活動は次の世代にお任せしていますが、青少年育成住民会議には今でもたまに顔を出します。

小学校の入学式で挨拶をしたときのこともよく覚えています。袋にりんごを入れて持っていって、それを壇上で出したら、集中力が切れて落ち着きのなかった子どもたちが一斉に私を見て話を聞くんです。「りんごはどこで育つ?」「寒いとこ!」などいくつか会話をしてから、ワイフにこっそり入れてもらっていた切れ目にそってりんごを手でパカーンと割ってみせると、子どもたちは大喜び。それ以来、地域で会うたびに「りんごのおじさん」なんて呼ばれるようになりました。

――子ども心をくすぐる楽しい挨拶ですね。今の佐倉の子どもたちにはどう育ってほしいですか?

自分で考え行動できる人に育ってほしいですね。今の子どもは知識はあるけれど実践経験が少ない。カブトムシをとる方法は知っていても、どのくらい力を入れて木を蹴れば足を痛めずにカブトムシを落とせるかは、実践でしかわかりません。これだけ自然と調和しているまちは少ないですから、その環境を活かしてたくさんの実践を積んでほしいです。

子どもは、私たちが思っている以上に親の背中を見ています。「こうしろ」と言うのではなく、親自身が行動で示す。そして少しでもいいことをしたら褒める。それが子育てでいちばん大切なことではないでしょうか。

私は人生で二度も生かされている

――1989年にこの「真琴画廊」をオープンされたそうですが、ギャラリーとして開放していた頃の思い出があればお聞かせください。

全国や海外からファンの方が来てくださっていました。親子や、なかには4世代でファンというご家族もいらっしゃいましたね。娘との会話が減ったことに悩むお母さんが、お嬢さんを連れて画廊にいらしたときは、「お母さんがたくさん持っていた雑誌やグッズの絵だ!」とお嬢さんが喜んでくれて。“真琴”を通じて親子の会話が増えたり、笑顔が増えたりするのは、画家としてとても嬉しいことです。

私は外交的でよく喋る性格なので、上京した頃は「絵描きがぺらぺら喋ったらダメ!」とよく言われました。でも私が目指しているのは、見る人が参加して楽しめるような絵。だからお客さまとの会話は大切にしています。

――見る人が参加して楽しめるような絵とは、どういうことでしょう?

たとえば、アメリカや日本の花占いは「好き」か「嫌い」かの2択ですが、フランスでは「少し好き」「情熱的に好き」「全然好きじゃない」など5択くらいあるんです。そういうエピソードをお伝えすると、みんなたいてい絵の中の花を見ながら花占いをして楽しんでくれます。

アメリカやカナダのミツバチが戻ってこなくて減少しているというニュースを聞いたときは、絵の中にミツバチを飛び交わせました。大人も子どもも夢中になってミツバチを探してくれていましたね。あとは、端に少し描かれている屋根の形でどこの国の絵かわかるようにしたり。

「佐倉フラワーフェスタ」のポスターデザインを毎年手掛けています

――先生の絵にはストーリーが込められているんですね。

お姫さまを描くときは、本当にお姫さまから肖像画の依頼を受けているような感じで会話しながら描きます。ロココ時代のお姫さまなら、その時代の衣装や装飾をきちんと調べて、マリー・アントワネットが嫉妬するくらい素敵に仕上げよう!とかね。

終生の課題は、見る人の気分によって絵の中の女の子の表情が変わるような絵を描くこと。嬉しいときは一緒に喜んでくれて、悲しいときは優しく励ましてくれているように見える、アルカイックスマイル(※)の描写を追求したいですね。

(※)古代ギリシアの彫像に見られる口元に微笑みをたたえた表情。

――先生が人生をかけて絵に打ち込む原動力はどこからくるのでしょうか。

私は人生で二度も生かされているんです。一度目は、仮死状態で生まれたとき。二度目は、小学生時代の大阪大空襲のとき。空襲警報が鳴るといつも避難していた近所のビルが、大阪大空襲の日に限ってなぜか入れなかった。私たち家族はしかたなく別のビルに逃げ込んだんですが、翌朝、その入れなかったビルは焼夷弾で燃えてしまっていました。いつものようにそこに逃げていたら私たちの命はなかったでしょう。

子どもながらに人生観が変わった出来事でした。それ以来、「自分の進みたい道をなにがなんでも突き進もう」と思うように。“高橋真琴”という画家は、デビュー当初から好きなことをやらせてくれた編集の方々や支えてくれたファンの方々、みんなでつくりあげてきたものです。

そうした感謝があるから、地位やお金は関係ありません。私は毎日コッペパン1個と牛乳1本だけでもかまわない。心から好きなことを、この佐倉の地でいきいきと続けられる。それが自分にとっていちばんの喜びです。

高橋 真琴
1934年、大阪に生まれる。貸本漫画でデビュー後、 雑誌『少女』にカラー連載「あらしをこえて」などを発表する。以後、雑誌の表紙、口絵、挿絵を描くほか、スケッチブックや筆箱といった文具類などで、数多くの少女画を手がける。1992年から現在まで定期的に新作個展を開催し、精力的に作品を発表している。2018年から「佐倉親善大使」を務める。

公式WEBサイト https://www.macoto-garou.net